神罰

このたび富岡八幡宮の事件では、神社の問題が噴出した。
マスコミがいつもの通り騒ぐ「なぜこのようなことが起こるのでしょうか?」という疑問は、単純すぎて、もうそろそろ止めた方がいいだろう。
この事件が、一般の家庭でも起こることと同じなのに、神社で起こった、ということが非常に特殊な問題を抱えてしまったことにある。

この愛憎劇は、過去世と当然関係がある。仇討ちという因縁の中で起きた事件でもある。
時代ははっきりとしないが、おそらく室町時代あたりの家督相続に関係があり、当時は女性宮司も男であり次男だった。長男は、今世で女性宮司を殺害した男だった。
当時、家督が長男と決まった時にそこの父親が亡くなり、相続をした時に、すでに決めてあった結婚式を神社で行う手はずをしていた。式は厳かに行われ、順調に、しかも静かに進んでいた。
この式に当たっては、長男の嫁が強引に進めており、父親がいる間に転覆されないように、との計略があった。それは、次男の方がしっかりもので計算高く、後継ぎは次男とのことも計算に入れ、密かに父親との連絡を取ってもいた。
後継ぎは長男という世間の形式を重要視したが、父親の最期の次男への進言が「お前が後を継げ」という言葉だった。親の本音は、長男に後を継がすと、親の財産が潰されるといった不安が最後によぎったのであろう。
次男は、父親の意志を継ぐために計略を図った。神社の離れで身内だけの杯を交わそうと次男は長男夫婦に話し実行した。宮司もそれを知って、見て見ぬふりをした。
そして、殺害は実行された。弟は裃(かみしも)を外し小刀で兄の心臓を一突き、そばにいた弟の付き人が、嫁を一突きした。弟の付き人は、今世殺害されかかったタクシーの運転手である。
全てのことは、当時、速やかに処置され、父親と仲が良かった宮司もその役を担い、何もなかったように、後継ぎ問題は次男になった。

今世の恨み事件はその逆と思われる。ただ、どこにでもある殺傷事件と違うのは、その事件が神社関係者で起こったことであり、「それは何故なのか?」という問題である。
一つは、そもそもこの家族の金銭感覚の無さは神罰に値する、ということになる。殺害した男は、神社に集められた金銭を湯水のごとく使っている。その時点で、神社には神は存在しなくなったようだ。
二つ目は、どろどろとした人間関係を神社の中に常に起こしてきたのは、神罰が起こる要素にもなった。
三つ目は、神社には神の存在は、殆どないと言っても良いだろう。
私が、神社での資格を取るために大きな神社で受講した折、そこの教師や職員を見たり話をした感想は、優れた霊感の持ち主など皆無だった。勿論、宮司を見たり講話を聴いても、単に普通の人以外の何物でもなかったのだ。
さらに付け加えるならば、当時、私がその神社の地方組織に入っていた時、そこの代表が、本庁の幹部に数百万円の賄賂を渡していたのを覚えている。代表は、女性だったが酒飲みで、多少の霊感はあり、賄賂を数名の人に毎年渡していた、とその代表が私に話していた。それは、お金を渡すことにより、年間の行事に参加でき、それによってその組織に箔が付くというものだった。
しかし神の存在は、金銭の授受には、そこに正当性がなければ、頓挫しても良い、という理念があり、今回の事件には、そこの理念が働いており、神は数年以上前から頓挫していた。
従って、神社には神がいると日本人の大半は思いたいだろうが、ほとんどの神社には存在しないと思った方が良い。勿論、それ以外の新興宗教は100%神の存在はないし、仏教関係も同じ要素が含まれる。
最後にもう一つ、この神社にはご利益を願うものが多々あったようだ。勿論、サラリーマンや商売人など純粋な心の持ち主。それとは反対の恨み、怨念を成就するための祈祷もあったようで、これには神社そのものが直接の関与したのではなく、個人や組織の意識に大きな関与があったと見て良い。女性宮司を認めない古来の神社庁もその怨念の一つに加わるといえば加わることにもなる。
強引で調和力もない革新的な女性宮司は、どこにいても殺傷されたことには違いがないが、有名な神社での殺傷ともなれば、大きな問題である。しかし、継承問題など、これに似た神社や仏閣が多々あり、次に起こらないための警告であり神罰でもある。