先祖霊の障害

先祖霊の障害

 自分が歩むべき道を阻止しているのは、目に見えない先祖の霊が立ちはだかっていることが多い。歩む道を大きな木が横たわっていたり、土砂崩れになったり、亀裂が入って道が数キロも寸断されたりの障害を生ずるのである。木が倒れているくらいなら、簡単に飛び越えることが出来る。しかし、霊障の巧妙さは、こんなものではない。
 昔、私の祖母が東京の三田に住んでいた時、泉岳寺に用事で行き、帰りに峠を越えなければならなくなった。その峠で夕暮れになってしまい、いつもの道で家路を急いでいた。ところが、歩いても歩いても同じ道に差し掛かるのだった。そこで、“狸にだまされた”と気づいた瞬間に、いつもの右へ回る道が現れたというのである。人間は、愚かなところが多分にあり、それに付け込まれ尺取虫のように同じ場所を何度も繰り返す。何も考えないものは、そのことを何十年も繰り返し死んでゆく。
 賢いものは、“これはおかしい”と気づくものである。これを悟りという。悟りも段階があって、釈迦のような大きな悟りを大悟という。普通はこの階段式になった悟りを一歩一歩上がることで、気づきの世界、つまり悟りの世界に入るのである。人は宗教に入って、瞑想したり滝に打たれたりして、その世界で悟った風を装うが、それは完全に誤りで、普通の生活の中で与えられた条件が、大きなヒントになっている。その条件でどう考えるかである。仙人のような生き方をしているものに、上のものは力を与えてはくれない。だから、宗教をやっているという組織の長は、カリスマを装っているだけで中身はまるでない。
 若き頃の弘法大師を勉強しても分かるとおり、見た目は普通以下の生活をしており、民衆から石を投げられたり、足でけられたりと散々だった。しかし、意志は固く信念に基づいて行動した結果、その地位を得たのである。現在、宗教と言って行動しているものには、旧来の行動を踏襲しているに過ぎない。彼らも供養供養といっているが、供養の本当の意味が分かっていない。供養というのが、本当の意味での人間界の修行なのである。遺伝子に組み込まれた魂の汚れを浄化する最大の手段であり、歩むべき障害物を取り除く最大の手段である。このことが出来ないから、あるべき道を進むことが出来ず、遠回りして最終目的地に終生辿りつけないのである。ただ、一般に行っているのは、形であり内容が伴っていない。だから、結果が出ないのである。だけど、結果の出ないようなところに行かされているのは、本人の意識が足りないし、まだ霊的に低いからである。そして、精神世界といって自分に自信を持ったり、自分で宗教を立てたりするのは、先ほども出た狐狸に操作をされているだけのことである。
 要は、真実を見る目を養うことだ。私は現在普通の生活をしている。菜食主義になっているわけでもない。だから、一般の人には気づかないだろう。形から入る日本人には信じられないだろう。しかし、2500年前の釈迦でも、修行時代ヨギに荒行をさせられたが、そのようなことが何もならないことを知って沙羅双樹の下で瞑想し、そこで悟りを得たのだ。しかも、その荒行がなければ、釈迦は20年長く生きていたようだ。現在、釈迦に荒行を教えたヨギが日本で転生している。私も会って何度か話したが、自分の瞑想や論理の構築に生命を注いではいるが、先祖のことにはまるで関心がなかった。来世はかなり落ちるだろう。このものもやはり遠回りをしているに過ぎない。しかし、私が超能力を持っていることだけは見抜いていた。だから、彼が主催する私の講演でも、レベルの高い人が来ると俄然雰囲気が変わった。
 そこまで分かっているものでも、自分を極める心眼を持ち合わせてはいなかったようだ。私から出る光は、霊的に低いものは絶対に反応しない。しかし、先祖の霊には、ことごとく反応する。だから、先祖供養すると、そのものの魂が清められるので、光が入りやすくなり、そのものに触るだけで痛みがとれたりする。肉体の波動が修正され、先祖霊ともども宇宙のリズムになってゆく。私の波動は、宇宙から取り入れている。
 少し霊感のあるものは、それが銀色に見えるだろう。この銀色の波動こそ、先祖の浄霊になくてはならないものである。そして、先祖の障害は、この先祖供養(浄霊)によって自然になくなってゆく。だが、ここには先祖に対する深い愛情と尊敬が必要になる。これがないものは、私の供養は受けられないし、途中でストップがかかる。

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