丹波哲郎の話

週刊現代に丹波哲郎の話が出たので紹介したい。
『 丹波さんが人生の後半において、のめり込むように霊界の研究や紹介活動に没頭していった背景には、彼が秘めてきた意外な一面があった。義隆氏が語る 「今になってみると、親父は自由奔放に遊ぶ一方で、実際は誰よりも臆病で、【死】を怖がっていたんじゃないかと思うのです。特に親父の母親、僕から見て祖母が亡くなったときくらいから、それが激しくなった。それまで親父は、【あの世が本当の世で、この世は仮の世に過ぎない。だから死んだら誕生日みたいにおめでとう、とケーキに蝋燭を立てて拍手してやらなければいけない、なんてうそぶいていた。 ところがいざ自分の母親が死ぬと、親父は嗚咽して遺体にすがりついた。とてもじゃないけど拍手して、おめでとうなんて言う余裕はなかった】 死への人一倍の関心と畏れ。それは丹波さんが戦争を経験していたことと無縁ではないだろう。 丹波さんは中央大法学部2年だった’43年12月、学徒出陣をした。態度が生意気と思われた丹波さんは、上官たちから連日のように殴られたという。そして数多くいた同期たちは戦況悪化の中、次々と戦死していった。 航空隊の一員だった丹波さんは、特攻隊員になる可能性もあった。極限状態の中、「死は怖くない」と自分に言い聞かせ続けなければ、正気を保つことはできなかった。
最愛の妻の「難病」に直面して
もう一つ、丹波さんの死生観や人間観に決定的な影響を与えたのは、最愛の妻・貞子さんだった。 貞子さんと結婚したのは、戦後間もない’49年。丹波さんはまだ27歳で俳優として売れる前のことだった。 丹波家は名家で、丹波さんの祖父、父、そして2人の兄までが東大出身。俳優を志した丹波さんは「一家の落ちこぼれ」扱いを受け、実家の援助もなく肩身の狭い思いをしていた。 そんな丹波さんを認め、救ったのが貞子さんだった。仕立て屋の娘だった彼女は、夫が使う衣装をすべて作った。すぐにエンストする中古のルノーを買ったときは、そのたび貞子さんが車を降りて下駄を脱ぎ、後ろから押してエンジンをかけ、撮影所に通った。貞子さんは、丹波さんのたった一人の味方だった。 しかし’58年、貞子さんは急性灰白髄炎(ポリオ)を発症し、33歳の若さで車椅子の生活となってしまう。スターへの道を上り始めていた丹波さんは、妻の介護の苦労を表には出さなかった。 「ロシアに特効薬があると聞くと、親父はすぐに買いに行きました。普通は少量しか手に入らないんだけど、そのときばかりは親族の力を借りて、大量に入手したって言っていました。親父はとにかく、必死で母を治そうとしていたんです」(前出・義隆氏)
 丹波家の救いは、貞子さんの性格だった。難病を抱えても貞子さんは、「仕方ない」と割り切り、前向きに生きる、そんな女性だったという。 「半身不随の貞子さんを丹波さんは本当に大切にしていました。地方ロケがないときは家にいることが多かった。 それで、よく映画監督の深作欣二さんも一緒に、丹波さんの家で映画を観ました。陽気な丹波さんに寂しい思いをさせないようにと、夜になると貞子さんが麻雀のメンバーを揃えたりしてね」(前出・千葉氏)
罪捜査や大義のため、非情な決断も冷徹に下す。そんな銀幕やブラウン管の中でのイメージとは裏腹に、貞子さんの前での丹波さんは、愚直で献身的な一人の夫だった。 「うちの親父が街中で母の車椅子を押そうとする。でも、母は嫌がった。【丹波哲郎】というのは商品だから、商品を傷つけてはいけないって。そして一人で車椅子に乗る母を見て、親父は申し訳なさそうにしていました。 俳優・丹波哲郎は、親父だけのものじゃないんです。ボス的な素養もあった母と、繊細な一面のあった親父との二人の協力があってこそ、皆さんがイメージする【丹波哲郎】ができあがっていたんです」
(前出・義隆氏) 戦争の経験と、病弱な愛妻を慈しんで生きた丹波さんは、自分にとって大切なものが何か、そしてそれを失う恐怖と辛さを誰よりも知っていた。だからこそ、丹波さんはことさらに、死後や霊界の研究へと傾倒していったのかもしれない ’97年、丹波さんが75歳の時、それまで約50年連れ添った貞子さんが亡くなる。義隆氏によれば、「親父は祖母が死んだとき以上に、人目もはばからず、わんわんと声を上げて泣いた」といい、そしてそれ以降、霊界への言及はぴたりと止まった。 「生前の母はハワイが好きだったので、遺骨の一部はハワイで許可を得て散骨しました。親父は『骨って浮くのかと思ったら浮かないんだな。スーッと沈んでいったよ』と呟いていましたね。何か、吹っ切れたようでもありました。 親父はその後、’06年に亡くなりましたが、二人は幸せだったと思います。親父が寂しくならないよう、お墓の中には、結婚前に二人が付き合っていた頃の、顔を寄せ合っている白黒の写真を入れてあります」(義隆氏) 丹波さんは、真理を模索し続けた彼方の世界で、貞子さんとまた会うことができただろうか。 』(週刊現代2019年12月28日・2020年1月4日合併号より)

  

星椎水精先生のコメント

  彼は、繊細で少し臆病者である。幽界を霊界と間違えるところは、大きな失敗だったようだ。幽界も大きく分ければ、霊界の一部ではあるが、正確に言えば、間違いである。彼は、霊能者ばかりの集まりには、時々顔を出していたと聞く。霊感があり、セリフを言っている最中に、現世ではなく幽界や魔界なども見えていたようだ。常に普通の人のような目の位置ではなかった。霊界のセールスマンなのに「死」を怖がっていたのは確かだ。死んで、自分がどこへ行くのかを気にしており、現在は、地上界の住んでいたあたりをウロウロしている。いまだに、彼が霊界と称する幽界にも行ってはいない。